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首都高のない日本橋

更新日:2007/11/05

映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」が11月3日に公開されたことを受け、新聞、テレビ等多数のメディアにおいて、同映画のシンボルとなった「首都高のない日本橋」のシーンが取り上げられました。

日本橋付近の首都高は、昭和38年4月11日の深夜から翌12日にかけて初めて橋げたが架けられました。この区間は「手延べ工法」という工法により施工され、桁の先端に手延べ機という鉄骨を組んだ比較的重量の軽いやぐらを取り付け、重心を残しながら桁を送り出していくもので、約3時間半かけてゆっくりと橋げたが架けられました。(下の写真を参照)
日本橋の上に橋げたが架かったこの日の様子について、当時の公団が発行した広報誌では、「『お江戸日本橋』の上に橋がかかるというので、報道関係者はもとより、約200人の見物客が集り、深夜の日本橋は、映画、テレビのライトをあびて、真昼のように明るく、祭りのように賑わった。」と伝えています。

日本橋の上に橋げたが架けられた当日の様子
日本橋の上に橋げたが架けられた当日の様子

当時も首都高が日本橋の上を通ることについては、様々な議論があったようです。特に、橋げたの位置が低く圧迫感があることについて、もう少し橋げたを高くできないかという意見が寄せられていたようですが、日本橋の上流下流にそれぞれ呉服橋、江戸橋の出入口を設けることとなったため、どうしても高さが抑えられることとなりました。また、そのことによって、当時日本橋の真ん中にあった「東京市道路元標」(現在は橋の袂の広場に移設)に橋げたがあたる結果となったため、現在見られるように道路の上・下線を分離して、その間に道路元標をはさみこむ形状としました。さらに、構造的にも複数の案を比較設計し景観に対して努力を払うなど、当時としてできる様々な検討を経て、昭和38年12月20日に同区間は開通しました。
なお、小泉元首相の要請により、「日本橋川に空を取り戻す会」及び国土交通省が中心となって日本橋付近の首都高の地下への移設や周辺のまちづくりが検討され、昨年9月15日に「総理への提言」として基本となる方針が取りまとめられました。提言の中にある首都高の地下への移設については、当社と高速道路機構との協定には盛り込まれていないため、その財源については国等において別途整理が必要ですが、当社としては、技術的ノウハウの提供等により積極的に協力していくこととしています。