Volume 2
フィクションでの記録

 アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』に、一九七〇年代当時の日本の首都高を延々と進む主観のシーンがあるのは有名だ。三時間弱にもわたる古い映画を、僕は五年くらい前に、下高井戸シネマで見た。川の中を流れる草のシーンが印象的で、現実世界で同じような川と草を見ると「ソラリスみたい!」と思うし、夜に空き気味の首都高を走っていてもやはり「ソラリスみたい!」だと思う。

 映画媒体が得意な表現があって、それは、その時代特有の風景をほぼそのまま記録してしまう、というところである。小説は文字でそれを行うが、ノイズのような細かすぎる情報は削ぎ落とされ、ある種の普遍性を保つ。いっぽう映画は、特に雑多な街中のシーン等では映画監督が意図していないような情報まで映り込み、時間が経過すると細部に古さを感じたりする。そこに、古い映画特有の面白さが宿る。単純に時代と風景の記録映画としても、楽しめるのだ。

 ただの記録映像や写真だったら、いくらでも残っている。とはいえ、首都高の歴史みたいなフィルムを見せられても、退屈にしか思えない。長い年月を経ても伝承される作品の中に、結果として時代性を感じる風景が映っているからこそ、人々の印象に残るのだ。

 小説家だからか、今自分が見ている風景や時代感を、そっくりそのまま記録しておきたい、という欲望もあったりする。それをどこまでやるかの線引きは難しい。若者言葉をそのままトレースするのは違うと思っているが、流行廃りの激しい電子機器とそれを使いこなす人間の動作や心理はちゃんと描いたほうがいいと思っている。作品に変に普遍性をもたせたいからと、最新のものを出さないようにするようなケチくさいことは、しない。現在の最新の細部をきちんと描写しようと努力することによって、登場人物たちの行いに整合性がでてきて、かえって普遍性が宿るのだ。

(次回は12月更新予定です)

PROFILE羽田 圭介(はだ けいすけ・作家)

1985(昭和60)年、東京都生まれ。明治大学商学部卒業。2003(平成15)年、『黒冷水』で文藝賞を受賞しデビュー。2015年、『スクラップ・アンド・ビルド』で芥川賞受賞。他の著書に、『成功者K』『ポルシェ太郎』などがある。

一覧に戻る

ページトップへ戻る