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Column
サンプラザ中野くん×エッセイ あの時、首都高の上で。

vol.1

父が見つめた助手席の空

「お父さん、今、皇居の横を走っているよ」
助手席の父に向かって俺はそう話しかけた。寝転んだ状態のまま父は「ああ」と小さく答えた。車は信濃町の病院を出て神宮外苑を半周し、外苑入口から4号新宿線を経由して都心環状線に入ったところだ。目的地は千葉県流山市。父と母の住処、俺の実家に向かっていた。後部座席には母がいた。

がんに侵された父は一年半ほど闘病していた。何度かの抗がん剤と放射線治療を受けていた。胸のとても珍しいがんということで手術は不可能だった。

そして病院では手の施しようがなくなり「家で過ごしたい」「病院は嫌だ」という父を家に搬送していくところだった。

この一年前、父は皇居に赴き叙勲されていた。すでに体が弱っていた父は車椅子に乗り、列の一番前で陛下にねぎらいのお言葉をかけていただいたという。介助のため傍にいた母は「お父さん、こどもみたいに泣いたのよ」と今も語る。

そして車は6号向島線に入り、隅田川と並走し三郷を過ぎ流山におりた。父は空だけを見つめただ運ばれていく。

ここから後は俺の懺悔。

家に着いた父はほぼ布団で寝ていた。痛み止めのモルヒネがかつての愛猫の姿を父に見せていたらしい。あと一週間なのか、一ヶ月なのか。俺は父がこのまま死ぬこと、そして家で父を看取ることが怖くなった。夜、母と兄を前にして「病院にもう一度入ってもらって延命してもらおう」と話した。翌日父は言った。「病院に戻るよ」と。隣の部屋での会話を聞いていたのだ。そして一家で車に乗り先日の道を信濃町の病院へと戻った。翌日父は病院で息を引き取った。

本当は家で亡くなりたかったのだろうな、と今も思う。「家族に迷惑をかけたくない」と思わせてしまったのだと思う。ごめんなさい。

首都高を走り、信濃町近くを通過するたび思い出しているのである。

サンプラザ中野くん

1960年8⽉15⽇⽣まれ。 ⼭梨県甲府市出⾝(千葉県流⼭市育ち)。1984年に爆風スランプのヴォーカルとしてデビュー。ほぼ全ての楽曲の作詞を手がけ、88年にリリースした「Runner」で紅白歌合戦に初出場。翌年の爆発的ヒットにより、更に幅広いファンを獲得。その後も「リゾ・ラバ(resort lovers)」をはじめ数々の楽曲をリリース。15周年を迎えた1999年4月に爆風スランプは活動休止宣言。2008年1月に「サンプラザ中野くん」と名前をリニューアル。爆風スランプデビュー40周年を迎えた2024年に再集結。26年ぶりに新曲リリースとツアーを開催し、各方面から話題を呼ぶ。