TOP / サンプラザ中野くん×エッセイ あの時、首都高の上で。 / 第3回『大きな玉ねぎと僕の関係(後編)』
Column
vol.3
大きな玉ねぎと
僕の関係(後編)
その瞬間は、あまりにも唐突にやってきた。1981年10月31日。俺は、まさかの武道館のステージに立っていた。いや、正確に言えば、布団に寝たまま回り舞台で登場し、起きあがって「尻の穴から出たい」という、世も末なタイトルの曲を熱唱したのだ。
ヤマハ音楽振興会主催、第12回世界歌謡祭・予選2日目。本来ポップス系コンテスト「ポプコン」の優秀者が出場するこの晴れ舞台に、アマチュアのロックバンドが出られたのは、まさに異例中の異例だった。当時、ヤマハはポップスとロックのコンテストを明確に分けていた。その慣例を打ち破ったのは、「尻の穴が痒い〜!!!」と絶叫する俺たちスーパースランプを、ヤマハの会長がいたく気に入ってくださったという、奇跡のような理由による。だが、やはりその歌詞が評価されることはなく、賞は1つももらえなかった。夢の舞台から現実へ、俺たちは肩を落とし、首都高・西神田入口からすごすごと地元へ引き返した。翌1982年、活動に行き詰まりを感じた俺と河合は、新たなバンドの立ち上げに参加した。「爆風スランプ」である。
爆風スランプはその後2年にわたるライブハウス活動を経て、1984年8月にレコードデビューを果たす。デビュー後のライブハウスツアーの締めくくりとして、同年12月、九段会館で初のホールコンサートを敢行した。楽屋のトイレの窓から牛ヶ淵を挟んで武道館が堂々と見えた。「いつかあの場所で演るぞ」と、心に熱い誓いを立てた。終演後、九段会館の楽屋に現れたレコード会社の偉い人が、夢を現実に引き寄せた。
「来年12月13日、武道館を満員にしてください!」
歓喜と同時に、とてつもない重圧に、俺は震えた。武道館を満員にするという、途方もない目標のもと、プロモーション活動は始まった。デビュー1年そこそこのロックバンドにとって、武道館を埋めることは無謀な挑戦だった。「満員は無理だ」「空席は目立つだろう」という弱気が芽生え始めた。そして、その空席への「言い訳」を歌に託そうと考えた。こうして生まれたのが、究極の"空席言い訳ソング"「大きな玉ねぎの下で」だ。1985年8月、焦燥の中で捻り出された1曲だった。
1960年8⽉15⽇⽣まれ。 ⼭梨県甲府市出⾝(千葉県流⼭市育ち)。1984年に爆風スランプのヴォーカルとしてデビュー。ほぼ全ての楽曲の作詞を手がけ、88年にリリースした「Runner」で紅白歌合戦に初出場。翌年の爆発的ヒットにより、更に幅広いファンを獲得。その後も「リゾ・ラバ(resort lovers)」をはじめ数々の楽曲をリリース。15周年を迎えた1999年4月に爆風スランプは活動休止宣言。2008年1月に「サンプラザ中野くん」と名前をリニューアル。爆風スランプデビュー40周年を迎えた2024年に再集結。26年ぶりに新曲リリースとツアーを開催し、各方面から話題を呼ぶ。デビュー41(よい:デビューアルバム名)周年の今年2月に、爆風スランプの楽曲「大きな玉ねぎの下で」が映画化。8月には爆風スランプとして初となる夏フェス「ASUTO MUSIC PARK」に出演した。






